「お前は、記者には向いていない」

この言葉は、今になって言われたことではない。大学の卒業を間近に控えた2年前、目黒駅近くの居酒屋で、ある記者に言われた。記者を目指していた頃、作文の指導をしてくれたM新聞の広瀬記者だ。

歳は50代。ライオンのたてがみのような白髪と、鋭い目つき。髪をかき上げながら、「お前はバカだ」というのが口癖だった。課題の作文は、いつも赤ペンで真っ赤になって返ってきた。それでも、「僕、記者になります」と、内定の電話を入れた時は、心なしかいつもの厳しい口調が和らいだ気がした。

広瀬さんは、社会部記者や週刊誌編集長として活躍した。バンコクに赴任した時、アウンサンスーチー女史からの手紙を紙面で連載していたという。その最中、協力者との音信が不通になった。人づてに、どうやら殺されたらしいという話しを聞いた。「俺は、人を1人殺した」。広瀬さんの吐き出す煙草のけむり越しに飲む酒に、記者という職の重さを感じた。

卒業前に、広瀬さんと居酒屋で2人飲んだ。記者になる期待と不安で胸が一杯だった。その時に言われた言葉が、冒頭の言葉だった。他人に頼らず、自分で考えて切り抜けろ、ということだったのだろう。

記者は、まず地方へと配属される。赴任地は、広瀬さんの初任地である岩手の隣、秋田になった。仕事に追われ、連絡も年賀状程度になっていた。返事が来ることはなかった。そして去年、ともに広瀬さんの薫陶を受けていた友人から電話があった。「広瀬さんが亡くなった。ガンだったらしい」。まだ定年にもなっていないはずだ。あまりの突然の訃報に、その日は取材に頭が回らなかった。

その後、広瀬さんの家族に連絡を取った。葬式はすでに終わっていた。香典のお返しと共に、奥様からお手紙と、広瀬さんの最後の記事の切り抜きを頂いた。広瀬さんは、ガンの体を押しながら、映画の現場を訪ねる連載記事を書いたり、当事者としてガンのシンポジウムに登壇したりしていた。

最後の取材は、相当なものだったようだ。奥さんに荷物を持ってもらいながら、山を登って「楢山節考」の取材をした。「夫は心身ともにきつい時でも、手を抜かずに仕事に取り組んできたと思います。それがまた、生きている証でもありましたから。」という。その記事が載って数日後、再度入院。そして夏、「あの空に溶け込んで」いくように、記者人生を終えた。体が弱っていくのを感じながら、ペンを握りしめ、取材を続けたのだろう。記事の最後は、監督の言葉を借りて「人間に興味を持て」と締めくくられていた。広瀬さんからの、最後のメッセージのように感じられた。

目の前の取材が上手くいかなくて悩んだり、怠けて逃げたくなったりする時には、広瀬さんと今飲んだら何て言われるだろうと思うと、身が引き締まる。「つまらないことを書くな、バカが」と言いながら、この文章も真っ赤にされるだろう。

飲み会で言われた冒頭の言葉には、続きがある。
「でもな、記者という仕事はやりがいがある。まずは頑張れ」
広瀬さんは、生涯をかけて、記者稼業に覚悟と矜持を持って望んだ。自分も、そういう記者でありたい。





広瀬さん、自分が記者になってから、もう一度飲みたかったです。
東北の美味しい酒を、一緒に飲めないのは残念です。
どうか、そちらの世界では筆を休めて、ゆっくりしてください。
僕は、向いていないなりに、頑張ろうと思います。
ご冥福をお祈りします。